愛の反対は「我」である。

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最近、「愛の反対は?」という問いに対する答えを見つけた気がしています。
結論から言えば「愛の反対は我」である。という話をしていきます。

ここでいう「反対」というというのは例えば白と黒、や冷静と情熱、といった対極の意味を持つ対義語というよりは、いわゆる「愛と共存できないもの」という意味での反対です。

つまり愛とは絶対に相いれないもの。としての反対です。

 

よく愛の反対は無関心であるといいますが、無関心は単に関心がないという状態です。
関心を持つかどうかというのは愛であるかどうかとは関係ありません。
それは自分の都合で強弱する趣向にすぎません。
とうぜん関心を持ったからと言ってそれは愛とは関係ないということで、逆に愛に生きれる人でも強弱するのが関心です。
関心や無関心なんて気まぐれな天気のようなものです。

 

じゃあ愛って何なんだ。

実際には「愛」というものの理解そのものがなぜ反対に「我」がくるのかを語るようなものですが、愛とは一切の趣向を排して降り注ぐ、湧き出す、あるいはずっと変わらずそこにあるもの。と私は考えています。
つまり本質的には「対象」とは関係のない、次元としての愛ということです。

そして我々はしばしばその次元と同調し、そこから愛を抽出して人や物に当てたりしている。
つまりあなたが「愛」であるときもはや対象なんて関係ないということです。
愛は行為ではなく状態であるということ。

 

さて簡潔ながらもこういう風に「愛」を理解するならば、その反対がなぜ我であるかが分かってきますね。
ポイントは「我」があるときに人は愛の次元に同調できるのか。という事です。

 

あなたが我が身を案じているとき、あなたは「愛」になれますか?

 

あなたが自分自身の理想や欲望や執念や嫉妬やその他もろもろの自我由来の状態であるときは決して愛の次元に同調できません。そんな状態のあなたの精神はそれどころじゃないです。
それこそ自分都合の「関心」でしかないのです。

愛は固有のものではないので、固有の人間に付属したり、誰かを中心に回るものでもない。
だからあなたが自分の中心を強く持っている状態で愛を道具のように扱うことはできないのです。
愛にアクセスするには「我」を捨て去る以外に方法はないのです。
逆に「我」の無いあなたでいられたなら、もはや愛という言葉すら必要なくなるでしょう。
あなたと私の垣根がなくなるわけですからね。

という事です。
あらら、長文を覚悟してたら案外と終ってしまった。

 

結論「我の次元は愛の次元とは相いれない」です。

今回のタイトル「愛と我」の非両立性を考えると、人類最大の敵は「我」であるとつくづく実感するものです。
そもそも「我」が不幸の原点である、ていう話もそのうちまとめたいな。

 

それでは、愛に届く日々を

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