真実は幻想。辺野古の問題は生き方の問題

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沖縄県辺野古で起きている米軍と日本政府による強制的な埋め立て工事。

日本中見渡してみても関心を持って見ている人は僅かじゃないでしょうか。

そんな中に流れる空気といえば少なくともメディアレベルでは対立と対立と対立。

対立ばかりしか聞こえてこない。

 

 

私は沖縄生まれ沖縄育ちで、ほんの最近沖縄に帰ってきたばかりです。

10年近く沖縄には住んでいないので、しばらく住む事になった今回は「沖縄とやどんなバイブスの土地かね」と思い、家探しもかねて名護、辺野古、東村あたりをドライブしながら見て回りました。

 

以前も何度か辺野古や高江の建設反対拠点を見に行ったことがありました。しかし今回、初めて陸から辺野古の海岸に設置されたフロートを見て思わず涙が止まらなくなりました。
初めてあのサイズ感を陸から眺めたときの迫力感、これだけ巨大な面積に住民が望まない罰当たりな構造物が建つという現実。
何ともいえない気持ちになり、しかし同時にもう一度この問題について考えさせられました。

 

しかし考えると言っても両サイドに深い言い分が存在するだけです。

自然環境論vs安保論

本当はそれ以前に県知事選、名護市長選の結果でもって住民の「生活環境論」は示されていました。が、そこは沖縄。やはり蹂躙され続けてきた歴史は簡単に覆りません。

米軍を県外に押し出すにはまだ住民の団結が足りないのです。

自然環境論はここでは無力です。開発に開発を続ける沖縄はすでに土建屋マインドの巣窟です。産まれたときからフェンス経済とコンクリート経済に囲まれて生きてきた多くの住民にとっては自然環境論など魅力のない遠い話なのです。

生活環境や自然環境を憂える人がいる一方、明日食う飯で頭がいっぱいの人もいるのです。

 

その目線からでは結論が出る前に基地が完成するでしょう。
圧倒的な力の差と多くの無関心市民を前にしては法も糞もありません。

 

 

しかしどうだ、一旦そういう議論を横においてみると、安保がかすんで見えるくらいもっともっと大きな絵がそこに在るんじゃないか。

 

 

「どこかの誰かが軍事基地を嫌がるやつの周りに無理矢理作ろうとしているのをみんなしょうがないと思っている。それはなんとなくしょうがない事になっている」

 

このような「社会」或は「文化」ってなんだ。

守る価値のある社会なのか。

残す価値のある文化なのか。

 

 

確かに今の世間では純粋な思いや静かな心でもって新しい社会やその将来を設計するにはウルサ過ぎます。
既にシステムの一部に成り下がった私たちは経済やテクノロジーでしか物事を計れません。
その上、自分たちの生活は「与えられるもの」と思い込み、与えられたメニューの中から選んで消費するだけの消費者マインドを授かってしまったのです。それでは責任感のある思考が身に付くはずもありません。

 

そしてメニューにない生活なんて想像も及ばなくなるのです。

「お客様、いかがなさいましょうか」

「では一流の卒業証書と取締役の椅子を貰おうか」

「お客様、いかがなさいましょうか」

「私には何もないので派遣社員になります」

「お客様、」

「お客様、」

 

考える暇もありません。

 

ですのでまずはメニューのある店をさっさと出る事です。

 

長い目で人間の営みを考えた時、本来私たちは自分たちの周りにある資源でどうやって生きて行こうかと知恵を絞りながら生存戦略を立ててきました。近代的な国家や資本経済主義が全ての生活を呑み込むまでは恐らく人間が存在してきた歴史の中でほとんどの時間を「自ら設計し続けるクリエイティブな存在」として過ごしてきたはずです。

 

人間が人間と、そして自然界と上手に、そして永く付き合い続けるための知恵。

それはメニューには載っていません。

なぜなら変化し続ける環境の中では「全体にとっていいバランス」も常に変化し続けるからです。

昨日と同じ明日はこないから今日の生き方を真剣に考える必要があるのです。

 

安保だの経済だのに惑わされている内に残り僅かになった尊いものが全て壊れてしまう前に、私たちはもっと大きな流れの中で生きているという事を自覚する必要があります。

 

原発と軍事基地に囲まれたおっかない社会よりも豊かな山河と共に生きる社会のほうが魅力的じゃないですか。

 

それでは良い一日を

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