方法になく思考にあり「自己解放」の意味とは

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以前の記事「バビロンって何?その中身、本当の意味とは」で課題を繰り越したままだいぶ経ってしまいました。
一度こちらの前回記事を読まれてからの方が分かりやすいかもしれません。

今回は「解放」についてです。

 

前回記事での結論、バビロンとは「支配しようとする心」または「所有する心」である。そしてそれが私たちの安心感からくる不安感を生み、欲張りからくる欲求不満を生むという風に表現しました。つまり私たちの精神構造が今の世界を作っているという、ある意味とても当たり前の事を端的に纏めた内容でしたね。

ではなぜそんな精神構造を培ってしまったか、これまたざっくり端的に言ってしまいますと
「これまでの永い人類史の中で、近代になって急激急速に特異な発展をしたことに由る副産物である」と言って然りではないでしょうか。
ネイティブ、原住民(国家社会、近代以前の生き方をしている人々)の思考には「所有」
という概念はそもそも存在しませんので「所有からの解放」を語る上でとても参考になります。

 

もう一度挙げておきますと、単なる物質的な所有意識のことだけではありません。
あなたは私のものであるという所有意識や誰かに恩を着せるといった過去や未来への所有意識、本当は存在しない時間に対する所有も近代的な幻想です。

とにかく全てです。
外界に対する所有意識全般です。

本来、私たちは何かに関わる事はあっても何かを所有したり支配する事はないんです。
それは幻想です。
でも幻想は幻想でも、存在しない幻想ではなく存在する幻想です。

私たちの世界を潤滑に回すには時には幻想もしっかり幻想として共有しなければならないという事を先に記しておきます。

 

さて前回はバビロンの正体はすなわち私たちの精神構造であると結論しました。そしてそのバビロンから見た聖地ザイオンとはどこなのか、すなわち囚われた心を解放するとはどういう事なのかという目線で課題を残しました。

今回はそのバビロンからの解放に加えて更に深い究極の解放まで、つまり根本的な「己意識からの解放」も合わせて考えていきます。

近代思考に囚われた私たちの精神構造からの解放と成育過程で養ってしまった己意識からの解放とは最終的に源流で出会うでしょう。

 

 


ではまず前回のバビロン論、すなわち「支配心」や「所有心」からの解放ですが、結論から言いますと考え方ひとつです。

 

素直に国語訳してしまえば単純明快です。

支配欲や所有意識からくる不安や欲求不満が苦しいなら
欲を捨て意識も変えればいいのです。

 

つまり「支配しようとする心」や「所有する心」から自分を解き放てばいいのです。

 

何かを支配しなきゃいい

それだけ。

 

私たちは何も持たずに生まれてきたんです。
なのに一体何に対して所有権を主張し、その苦悩や不安に満ちているのか。

 

本来何も支配しない存在が何かを支配しようとすると、支配した瞬間、
自分の支配心に支配されてしまいます。

 

 

生活のほとんどが欲求と欲求不満、所有意識と被害妄想に明け暮れてしまうと世界は当然、矛盾に満ちた不安と不満の対象にしか見えなくなります。

 

そこから先は無限の幻想世界です。

自分が自分の支配心に支配されたとも知らずにどんどん心の重荷を増やし、人を責め、自分を責め、そのうちに右も左も分からなくなって最後は屋上やプラットホームから身を投げる。

という暗い話に繋がっていきます。

 

 

もういちど、

わたしたちは何一つ持たずに出現した存在です。

そういう性質の存在であるとすれば、何かをぶら下げるともう一方にも何かがぶら下がる。
という力学が働くはずです。

それは幸せな感情にもなり得るし不幸せな感情にもなり得る。

そういう力学を感じ取れたなら、自分が意識的に持っているものと無意識的に抱えているものに境界が存在しないない事に気づきます。

 

 

仏教の世界ではそれら、常に+やーに振れ動く人の心情を汚れや煩悩と呼んでいるのでしょう。

仏の道を歩む人が何も持たないのも納得できますね。
托鉢用の器、爪楊枝、袈裟。究極の三点セットです。
最近では断捨離も流行していますがこれは削ぐ事に目覚めた人たちの儀式ですね。
持った瞬間持たされるもう一方の要素の質量を人一倍感じ取っている事でしょう。

 

ですので解放の物理的な方法論を探せば出家や断捨離がそれにあたるかもしれませんね。
あるいは宗教という名札すらついていないような伝統儀式(セレモニー)。
そういった修行や儀式を通して肉体や物質を凌駕し、霊的な目線から俯瞰する、あるいは単純に心の荷を降ろすという意味では物理的アプローチができるとも言えます。

 

最終的には自分の意識が過ごしやすい条件を知り、それ獲得するための思考習慣心の状態に近づきます。

そうして得たものを反復し、思考習慣に刷り込み、自分の振る舞いとして習慣づける事ができたら様々な苦悩や不安から解放されるでしょう。

 

この辺りまでが前回記事の解放についての結論です。
つまり思考一つで「解放」にアクセスする事ができる上、その向こう側の意識にチューニングを合わせる事ができたなら、その瞬間あなたが見て聞いて感じている世界の全てが大きく色を変えるのです。気付きとか、半悟りとか、あるいは弱変性意識状態と言い換えても良いと思います。

 

 


さてさて、ここまできたら極論の解放に合流してきます。

 

そもそも「己」や「自我」すら所有の天秤にかけてしまおうというものです。

それは「あなたはあなたを所有していますか」という究極の問いです。
つまり自分が感じている世界全ての根源である自分自身を本人が所有しているかどうか。

 

この究極の問いはまともに掛け合っていたらもはや日常生活に支障をきたします。
ずーっと議論していられるようなテーマです。

しかしその意識の根っこの部分が自分としか繋がっていないのか、或は未来過去含めた森羅万象と繋がっているのかという認識の違いは、もう白と黒ほど違う話です。

何が主で何が従なのか。
ワタクシが主で万物が従なのか、或は万物が主でワタクシが従なのか。

私たちは生まれたときから巨大なシステム社会で生活をしていて、ここではそんな事を考える余地なんて与えられていません。このシステムを動かすためだけに教育された私たちは当然、無意識的に自分自身を自分という存在が所有していると思い込んでしまっています。

 

 

でも冷静に座り込み考え込めば誰でも感じられる事です。

私たちは意識体でしかなく、その意識以外何も持たない。そもそもその意識すら私たちが持っているのかさえ私たちには分からない。ただただ自分の意識の存在を感じる事しかできない。

 

 

「自分が自分を所有する」という考えは幻想なのです。肉体なんて地球上の有機活動の隙間で一瞬借りただけのこと。仮に「自己所有」を、その考え方を社会の都合的な幻想として共有するのは構いませんが、それは「共有された幻想」であると理解している前提で取り入れるべきです。

それに気付かずがゆえ苦しんでいる人が現にいるのですから。というか多勢です。

 

正しい死生観を身につけていない私たちは漠然と老いに対して怯えます。

しかしそれも座り込めば分かる事です。

自分の命を素直に辿るだけで自分からどんどん離れていきます。

遥か彼方に行ってしまった時に自分の肉体を眺めるとまた考え方も変わるかもしれません。

 

恐らく人間が死に対しての恐怖や不安を抱くようになったのは人間が自分自身の体を自分自身の所有物として考えるようになったからではないでしょうか。

強く自分自身を所有し自分の帰属先を肉体に置いてしまうと肉体の死がまるで世界の終わりであると錯覚して当然です。産まれて始まって死んだら終わりという有限世界に自己を見いだすと、当然死は受け入れ難い恐ろしいものになるでしょう。
そしてとてつもない不安を心に宿し始めた人々は次第に諸宗教観を生み出し、浄化や解放を求める。
死んだら浄化するという考え方もとても合理的で救済的な役割を持っていると言えます。
「死んで楽になる」とはよくいったものです。

対して原住民型の諸儀式の場合、どちらかと言うともともと帰属先は大自然であり、自分はその一部に他ならない、そして偉大なる存在と一体である事を思い出すために儀式を通して肉体を離れ、それを再確認するといった様子です。
良い意味で生死の境が曖昧と言えるかもしれません。
原住民はもともと大自然と生きているので死生観もアチラから来てまたアチラに帰るだけで、生まれる前も後もずっと永遠性を持った偉大な存在の中に生きているという感覚を持っています。

しかしそこでも儀式が必要なのはやはり人情でしょうか、人と人が生きて行くのは自然を相手にするよりも遥かに課題が多いという事の現れとも言えると思います。

 

つまり何も所有せず、偉大な存在と一体であると確信できれば自分個人の死など大した事ではなくなるのです。

 

 

こう考えると人間っていう生き物はのは無意識に所有しちゃうから意識的に捨て続けなければ健康が維持できない一風変わった滑稽な生き物にも見えてきます。

 

結局「所有する故の苦悩」は「己を所有しているか」という究極の問いから言っても同じ動きをするようですね。
何も持たず、肉体も持たず、大地に還り、宇宙に還り、母体に還る。

きっとそれが真理なのでしょう。

 

 

 

さてさて、
それではこの辺で

現実の世界に戻ってみましょうか。

 

 


そう、

とは言っても私たちは手足を持った意識体ですからボリュームの違いはあれど命に従って生きる事を運命づけられています。

人間的に言えば「生活」する事を定められたのです。
少しナゲヤリに言えば生まれちゃったから生きるしかないってやつです。

 

その定めを生きてきた私たちは他の命を頂いては外界の資源を活用し、また外界の脅威と対峙してはそれを乗り越える為に知恵を付けてきました。
それは古くは「存続する」という単純な動機で生活を営んでいたのだと思います。

「存続」とは生き物が本能的に求める一番原始的な要求だと思います。
なぜなら宇宙の存在、存続そのものが「永続性」の要求だからです。

 

そして私たちの「存続」はそのうちに存続に必要な道具を粉ミルクからミサイルに至るまで何から何まで生み出しました。そしてゆりかごから墓場までびっしりとモノで埋めつくしました。
(人類史を一言で端折ってしまいますが)
私たちの今住む世界はそういった狭い範囲の存続をばかりに気を取られているうちに大きな存続の危機に直面してしまった例だと言えますね。

 

中途半端な所有意識は多くの矛盾を生み、多くを犠牲にします。
どうせ所有するなら地球一個ぐらい所有しましょう。
そしたらブラジルの森林伐採にも反対する動機が生まれます。

 

 

広がりすぎた私たちのこれからには新しい意識とサイエンスが必要という事です。

 

経なければ分からなかった時代を経て、弊害を学び、現代の所有病に塞がれながらも宇宙的な意思を頼りに解放を求めているのでしょう。

 

意識を持って意識を救済するのが「解放」です。
思考が作った檻は思考がのみ開けることができます。

 

何も持たずして成るのです。

 

「解放状態」に在ればいいのです。

答えは状態です。

 

 

 

「どんな思考状態で生きるか」

 

 

 

ここまでのご精読ありいがとうございました。
これで最後になります。

 

私たちの世界は一刻一刻と変化しています。物理的な行動や方法が今日は最適で合理的に働いたとしても明日にとっても同じように最適で合理的に働くかは分かりません。
そして毎瞬毎瞬、私たちの一挙手一投足は全てその思考とイデオロギーによって決断されます。

思考や妄想が主行動は従です。

 

自分の思考や意識がいかに世界に影響を与えるか、そしていかに自分が大いなる存在の一部であるか、意識の拡張に努め、我々の世界を俯瞰できたならとるべきバランスも見えてくるはずです。

 

私たちの生命活動、すなわち生活とは命を還すその日までバランスをとり続ける活動です。

そしてそのバランスの取り方が「生き方」です。

 

私たちが支配心や所有の幻想から心を「解放」し、自らが万物であると悟る事ができたなら良い生き方ができるようになるでしょう。

 

 

それではいい塩梅を

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