「農」と「農業」の違いについて

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スクリーンショット(2014-09-24 21.47.40)

 

先日、鹿児島のとある農産直売所に立ち寄った時に目にした標語。
壁にどかっと大きく貼ってありました。

 

私は言葉の言い回しに惹かれる事がしばしばあります。

この標語もカッコいい言葉だなーと何気に眺めていたのですが、
これは最近の自給自足ブームやオーガニックブームによって、畑や農業、田舎暮らしといった生活に惹かれている人々に「農」の本質と「農業」について考えるキッカケを与える、そんな言葉だなと思いました。

 

どういう事か少し説明いたします。

 


時代はとっくに飢餓を克服している現代、私たちの種を蒔くキッカケや動機は「面白そう」という興味からだったり、或は商品の生産だったりといったところではないでしょうか。

それらは全て「農業」です。

ブーマーたちの憧れる農業、或は商品として生産する農家の農業、これらの農業はすべて、この標語のいう食料供給が存在意義でない「農業」です。

 

では今回のタイトルにもある「農」とはなんでしょう。
農と農業、何が違うんでしょうか。

私なりに「農」と「農業」を解釈いたしますと

「農」という言葉(分野)はまず精神論的な要素を多いに含んでいると思います。
本質的な「農」とはサバイバルであり、狩りやなんかと同じでどうなるか分からない不安と隣り合わせの、命に直接繋がる必死な営みです。そこには「稼ぐ」や「悦ぶ」ではなく「生きる」を意義として存在しました。それはすなわち命そのもので、クモが巣を張るほど当たり前で、人間の営みそのものです。
ですので「農」の精神に心の焦点が合っているときは、「大地が在るから生きてられる」「生き物がいるから生きてられる」なんてそんな事を意識するまでもなく、「一員として生かされている」ことが腹の底に座っているのです。
「明日の為に今日は生かす」という発想もそうです。
目先ではなく、遠くを見るのが農です。
「農」とは一言では見通せないほどの広い意味があるのです。

 

対して「農業」とは商品の産出や趣味としての農耕活動です。その存在意義は人によって様々でしょう。出荷する人、加工する人、調理する人、日記を付ける人。色んな動機によりますが、これらはどれもその他普くの「業」同様です。

 

ですので繰り返しになりますが「農業の存在意義は食料供給ではない」というのは自明でその通りなんですね。
「農業」は食料を供給しているのではなく、その商品や悦びを供給しているのです。

 

 

しかしその「農業」を通して感じていく「農」の本質があります。

 

「謙虚に」お天道様や大地に学ぶ事により、自然のスケールと自分のサイズ感、地球と宇宙の繋がりや生き物の巡り、実に様々な答えを得られます。
畑というのは天気そのものです。天気そのものでありながら、天気は諦めるしか無いのです。「謙虚」はそこから生まれます。

 

そして「民族の気質を養う生業」である農業はまさに民族の気質を見て取れる生業と言えるわけです。これはすべての業種に対して言える事だと思いますが、
そのセンスから民族のセンスが伺えるわけです。

 

土が痩せる農業。他の生き物を追い出す農業。石油で育てる農業。川を汚す農業。どれもこれも私たちの求めた農業です。

季節を選ばず安定して食べれる果物、野菜。
何処からともなくやってくる大量の安い食べ物。
どれもこれも魅力的ですね。

 

 

さてさて、

私たちの「農業」は生活と結びついているでしょうか。

そして私たちの生活は「農」と結びついているでしょうか。

 

それでは良い日々を

 

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